9.11選挙

−日本はどこへ?−

 

加藤 康二

 

 いままで生臭い国内政治問題を避けてきた私だが、今回は小泉首相の思い切った冷酷とも言える政治手法    「男は躰を張ってでも、だれにも出来ないことをする」  「劇場(激情)政治」   どこまで本物か興味あるところ、少し触れてみたい。

 「小泉首相の人柄は織田信長的な、破壊と創造を考えている人で、現在それを実行している人と理解しています」とはジャーナリスト:上杉隆氏の言。「朝日(8/27/05)」

 また首相と親しい奥田経団連会長も、年頭の記者会見で「平成13年4月の政権誕生から今日に至るまで、小泉首相の政治手法は、戦国時代の「劇場型政治」をとってきた。その破壊的なやり方は、これまでの日本の政治の在り方を大きく変えた。自らが率いる自民党の人情政治、しがらみを壊してきた」と述べている。この結果、現在中曽根親子の恨みを買っているが、大衆はどちらに軍配を上げるか?この辺の機微も心得ている劇場政治家と言えよう。

  そして今回もまた、郵政民営化法案の参院否決というピンチを逆手にとって、衆院解散を強行し、永田町の住人たちにパンチを与えた。さらに反対票を入れた自民党国会議員の公認をせず、この全選挙区にくの一まがいの「刺客」を放ち、追い打ちをかけ、選挙戦そのものまでも「劇場化」してしまった。議員らは命がけである。敵する者は容赦しない。それはまさしく織田信長的である。

 反対派のボス・綿貫元衆院議長も、解散後の8月14日、富山県高岡市の会合で次のように挨拶した。

「小泉首相は織田信長なんだ。比叡山の延暦寺を焼いて3千人を殺した。言うことを聞かなきゃ焼き殺すぞ!今やっていることは信長の比叡山焼き討ちの形とよく似てきた」。果たして、今回の一連の政治行動は、純粋な政治信念から起こったものなのか、それとも単に、権力闘争に長けた政治家の犯罪的行動なのかと厳しい。そして昨年12月16日、首相官邸で行われた自民党1年生議員との会合の模様を面白く紹介している。この席で今回の造反議員のひとり古川禎久前衆院議員(宮城3区)の発言。「総理大臣、一言言わせていただきます。かつて、織田信長はキリスト教という外来の力を利用して、比叡山を焼き討ちし、旧来の秩序を破壊しました。そしていま首相、あなたはアメリカの力を利用して、日本の和の精神をも壊そうとしています。政治家としての見識はお持ちなのでしょうか・・・・」と。カレーライスを食べていた小泉首相は、フッとせせら嗤うと、スプーンを口に運びながら、視線を宙に浮かせ、つぶやいた。「そういえば、明治時代にも西南戦争()というのがあったよな」   このタイミングに、彼は大した千両役者だ!一緒にいた若手議員たちはその瞬間、小泉政権下では、

決してを越えられないことを悟ったのだ。

 以上のエピソードから多くのことを学ぶ。そして改めて西南戦争、西郷南州翁遺訓を紐解いてみた。

 先ず小泉首相は歴史に詳しい。劇場政治の機微を心得ている。やっぱり大物か?西郷南州翁遺訓の「首相の資格は何か?」をここに紹介したい。

「廟堂に立ちて大政をなすは天道を行ふものなれば・・・・」

政府の中心にあって、国のをおこなうことは、天道を踏み行うことであるから、すこしでも私心を差し挟んではならない。心を公平にして、正しい道を踏み、賢明で適任だと認める人がいたなら、すぐにでも職を譲るくらいの覚悟がなくては・・・・・・・。

 松下幸之助氏も「昔、会社に功績のあった人でも、今は役に立っていない人がいる。この人を重役など会社の主なる地位につけてはいけない。会社の地位は現在の能力で決めなければいけない。お礼はカネでやれ!退職金でケジメをつければいい。天下り、終身現役なんてもってのほか!」首相の中曽根切りは勇気ある決断だったと思う。

 「千万人と雖も吾往かん」の気概。百年の計に信念を持って歴史の流れを変えることは至難の技。

 さーて、小泉首相は信長か?  歴史に残る宰相か?

 そして本能寺はいつ、どこで起こるか?

小泉首相は「自民、公明で過半数がとれなければ、退陣する」と明言し、一方民主党岡田代表も「政権を取れなければ代表を辞める」と決意のほどを表明している。選挙後どちらかが消えるはずであるが・・・・果たして?  興味津々!   老耄妄想!

 

.11は二百二十日

 テロ・台風 ただじゃ治まらない記念日

 

*注

西南戦争     官軍と薩軍による日本近代史上最大の内戦

 徳川幕府解体後、明治政府は廃藩置県や地租改正を進め、封建から近代国家への歩みを進めていた。しかし、旧藩閥の対立や政争、官僚の汚職・職権乱用など、また、新政府の政策により特権や経済基盤を失った旧士族の不満、地租改正に対する農民の不満、農民一揆の頻発など新政府内は不安定であった。

 近衛都督の職にあった陸軍大将西郷隆盛は明治6年(1873.10.24)征韓論に破れ辞表を提出し、鹿児島へ帰った。 明治7年6月には鹿児島私学校を設立し子弟の養成に努めた。

 当時鹿児島は士族の禄制も改められず、地租改正も行われず、西郷一派で固め、中央政府の威令がまったく行われない独立国同様であった。しかも明治維新を成し遂げた薩長土肥のなかでも、薩摩藩の強大な軍事力は健在であり、また反政府感情も極めて高かったことから、中央政府にしてみれば目の上のたんこぶ、脅威の的であった。

 長州閥の木戸孝允は薩閥の大久保利通の責任を厳しく追及した。木戸の突き上げにより大久保は、腹心らと善後策を図り、鹿児島出身の23名を密偵として鹿児島に潜入させ、私学校関係者の離間工作を行う。政府はこれに呼応して、鹿児島にあった陸軍省所管の武器弾薬を秘密裏に持ち出そうとする。

 これを政府の露骨な挑発と受け取った急進派の私学校生徒は、火薬庫を襲撃。さらに密偵の大量逮捕によって、西郷暗殺の計画が流布されるに至っては私学校側も激昴する。火薬庫襲撃事件が私学校に対する弾圧の口実となった政府との対立は決定的となっていた。

 予期せぬ火薬庫襲撃事件に西郷は「お前たちは弾薬に何の用があるのか!どうして盗んだのか!」と幹部を前に激怒したという。しかしながら、私学校幹部ほか挙兵決行の意思が強いのを知ると、ついに西郷も決意。ここに西南戦争の勃発となった。

 

「田原坂の戦い」

明治10年の西南の役は、日本史上最大にして最後の内乱であり官薩両軍が国を想う信念により戦われた一大血戦であった。この西南の役で最大の激戦となったのが、明治10年3月4日から20日までの17昼夜にわたる壮絶なる田原坂の戦いである。

 

田原坂の戦いの大半は冷たい雨の降り続く中で行われた。

「薩摩隼人は天下無敵じゃが、一に雨、二に大砲、三に赤帽は苦手じゃ」と薩摩の兵士はこぼしていた。赤帽とは白兵戦に強かった近衛兵、大砲は炸裂弾の大砲、最も恐れたのが雨だった。

 雨が降ると薩摩兵の木綿の着物は水を吸い動きが取れず、わらじも切れ、先込めの銃は粉の火薬が水を吸って不発になる。官軍は水に強いラシャの軍服、革の軍靴、雨の中でも発射できる元込めの銃を使用していた。

 雨の田原坂の戦いは近代装備の官軍に有

利に展開していった。

 

 

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雨は降る降る 人馬は濡れる

           越すに越されぬ 田原坂

右手に血刀 左手に手づな

           馬上ゆたかな 美少年

山にしかばね 川に血ながる

           肥薩の天地 秋さびし

田原坂なら 昔が恋し

            男同志の 夢の跡

田原想えば 照る日も曇る

           今宵忍ぶは 恋じゃない

阿蘇の御神火 心に抱いて

           九州男児の 血は熱い

退くに退かれぬ 田原の嶮は

           男涙の 小夜しぐれ